おやじ倶楽部

40代おやじの備忘録ブログ。

おやじ倶楽部

出島へ-in 長崎-

投稿日:

40代おやじ(@40oyaji_en)と妻を乗せた車は長崎市内を抜け次ぎの目的地に向かう車内では・・・

妻は満面の笑みを浮かべながら

運転手さん!次ぎは、どこに向かうのですか?
運転手さん
次の目的地は「出島」になります。奥さんは出島はご存知ですか?鎖国(さこく)の際、ポルトガル人を管理する目的で作らせた島だった場所です。

妻は、40代おやじ(@40oyaji_en)の顔を見ながら

あっ・・はぃ。でも・・私 船が苦手なんです・・・
40代おやじ
(後で必ず聞いてくるやろな・・・
「出島」って何って?「鎖国」って何って?勉強したやろと言うと必ず帰ってくる言葉・・うちの学校では「絶対」習って無いでという言葉・・

卒業して〇〇十年経ってるから忘れたんやわというと・・・「ほんま絶対」習って無いって、嘘やと思うなら学校の先生に聞いてみ!と何故か自信満々で言う彼女を思い浮かべてしまう。???・・・そっちかい!)

運転手さん
出島といっても、船を使わずに歩いていけますから 笑
良かった~。出島って言うから船に乗るんかと思って

話をしている間に出島近くの駐車場に到着。

運転手さん
お疲れ様でした。少し駐車場からは距離がありますがせっかくなので歩いていきますね。
は~い!
運転手さん
少し駐車場からは距離がありますが歩いていきますね。

橋にかかると運転手さんが指を指しながら

石垣

運転手さん
この先に石垣が向こうまで続いているのが見えますか?あの石垣の上が出島になります。石垣は出島が造られた当初から手を加えることなく現在まで残っているんですよ。
えぇ!?じゃあ!じゃあ!何百年前の人も同じ石垣をやこの景色を見てたんですか!?
運転手さん
石垣は変わっていないのですが、風景は変わってるかと思います
そっか!何百年前の人たちが見てた同じ石垣を私たちも見てるんや!!すごいね!
40代おやじ
そうやなぁ

妻は何かを見つけたらしく橋の欄干から川を覗き込み

あっ~!!牡蠣がぎっしりくっついてるでぇ!あれ食べれるんかなぁ?
40代おやじ
ほんまやな。どうやろうな・・食べれるならあそこにあんなにくっついてないとは思うんやけどなぁ
あっそっか!!食べれるならみんなとって食べてはるわな。

そうこうして橋を渡りきると

運転手さん
さぁ~つきましたよ。
では、出島の中に入っていきましょう!

2人分のチケットを購入し、運転手さんを先頭に中に進んでいくと・・・
教科書などでよく見た・・過去の出島の風景を復元したミニチュアが目の前に現れました。

写真撮らな!カメラ!カメラ!はやく!はやく!
40代おやじ
そんなに慌てることないよ。
ここからがいいなぁ~。バッチリやわ!(大きなひとりごとです)
運転手さん
奥さん!ここからが一番綺麗に全体が撮れますよ!

と指で写真撮影用(1人用)の台を指していました。
妻は、運転手さんの指を指す台に駆けのぼり

ホンマ!ここから見ると全部はいるわ!(ミニチュア全体を意味しています。)あんたも見てみ!はやく!はやく!

ミニチュア
妻の撮影した出島ミニチュア

40代おやじ
・・・一人しか乗れないからな。
後で見るね。(苦笑い・・・)
そうか!
バッチリ取れたで!でも あんだけのスペースやったら外人やたら2人ぐらいしかおられへんな
40代おやじ
・・・えっ!?なにが?(妻よ!まさかのここでも・・天然ボケか・・・)
あれが出島やろ
40代おやじ
あれはこの場所の過去の模型やで(やっぱりか・・・)
・・・そんなことわかってるし!ここが小さいなっていうてん (顔を真っ赤にして)
40代おやじ
・・・そうですか(でも あんだけのスペースやったら外人やたら2人ぐらいしかおられへんなと言ったのはどなた様ですか 笑)
運転手さん
では、先に進みましょうね

出島

出島は1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力者に命じて作らせた。築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は高木作右衛門、高島四郎兵衛などの長崎の25人の有力者が出資した。

ポルトガル人は、 彼らに土地使用料を毎年80貫支払う形式となっていた(初代のオランダ出島商館長となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は55貫、現在の日本円で約1億円に引き下げられた)。

1639年、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放としたため、出島は無人状態となった。その後、出島築造の際に出資し た人々の訴えにより、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住す ることになった。以後、約200年間、オランダ人との交渉や監視を行った。

原則として、日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められた(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなど は外出を許されていた)。1651年に長崎諏訪神社が勧請造営され、祭礼長崎くんちも始められると、中国人と共にオランダ人も桟敷席での観覧が許された。

ペリー来航によって日本が開国されることになった翌年の1855年(安政2年)に日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可された。 1856年には出島開放令と共に出島の日本人役人が廃止され、3年後の1859年には、出島にあったオランダ商館も閉鎖され、事実上「出島」としての存在 意義は失われた。



僕の名前は織田縁です

おやじ倶楽部ブログを最期まで、お読みいただきありがとうございました。

ブロトピ:ブログ更新しました!

スポンサー

スポンサー

-
-,

Copyright© おやじ倶楽部 , 2017 AllRights Reserved.